中学部

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盂蘭盆会

投稿日2019/7/16

本日は仏教行事の「盂蘭盆会」が行われました。

 

「盂蘭盆会」とはいわゆるお盆の法要で、浄土真宗では、お盆は亡くなられた方をご縁として、仏法を聞かせていただく日とされています。

本日は生徒全員と、初盆にあたるご家庭の保護者と一緒に法要を行いました。その中で読まれた、高等部の生徒の悼辞を以下に引用します。

 

悼辞

木々の緑がますます色濃く感じられる今日この頃、今年も盂蘭盆会を迎えることとなりました。この盂蘭盆会は先祖に感謝し、供養を尽くすという意味合いを込めて行われるようになりました。
私は今回、この日を迎えるに当たり、祖父の死を通じて自分が今生きられていることの有り難さを改めて感じることができました。
祖父が亡くなったのは、去年の5月5日のことでした。孫思いで、楽しいことが大好きな優しい祖父でした。2年前から体調がすぐれないことは知っていましたが、「いつでも会える」「おじいちゃんに限って」という思いから、なかなか会いに行く機会を作れずにいました。去年の4月下旬にお見舞いに行ったとき、祖父はベッドの上でずいぶん小さくなっていました。それでも、私を心配させないよう明るく振る舞ってくれました。帰る間際に家族で祖父を囲み写真を撮りました。その時、私の手をぎゅっと握り「かっこよく撮れよ」と言いました。これが祖父と交わした最後の言葉でした。
祖父のお葬式の際、お坊さんが「おじいちゃんはお浄土に生まれていかれました仏様になられたのだからどこにでもおられます。もし、会いたいと思われたなら。南無阿弥陀仏とお称えしてください。いつでも一緒に居てくださいますよ。」と話してくれました。この言葉は悲しい私の心に染み込んでいきました。
葬儀後、親戚が集まり祖父のルーツが話題になりました。私の祖父のルーツは白系ロシアと呼ばれる、ロシア革命後に祖国を逃れた移民にあると言われています。日本に亡命したそれらの人々は、貧しいながらも互いに助け合い、日本の社会と文化に影響を与えたそうです。今まで歴史の授業は自分と関係のない遠い場所や時間の話だと思っていました、しかし、祖父のこの話を聞き、過去の事実や出来事ひとつひとつの重なりが、年月や距離を超え自分の「いのち」に繋がっていると感じたとき、思わず声が出るほど感動しました。
仏教の授業で「ご縁」の意味を習いました。素敵な考え方だなと思っていましたが、祖父の死を通して「先祖が生き抜いてくれたから私は今ここにある」ということを実感しました。そして、受け継がれて来たいのちの尊さと重たさを感じるとき「自分のいのちは決して自分一人のものではなかったのだ」と気づくことができました。私はこの体験から、「ご縁」という言葉を思ったとき、それと同時に「有難う」の言葉が浮かぶようになりました。
本日の行事には私のように大好きな家族を亡くされた方がいらっしゃいます。盂蘭盆会の意味の一つはもう一度故人と遭うことだと思います。故人を思い、先祖に思いを馳せることは、今の自分の尊さを感じることへと繋がり、生かされているという振り返りにも繋がると思います。
本学院ではそのきっかけが「南無阿弥陀仏」です。この六文字は、亡くなられた方をい心に思えるキーワードです。
いつも誰より早く来ていた、祖父からの「お誕生日おめでとう」の電話が来ない、と気づいた時、祖父とはもう合うことが出来ないのだと実感します。しかし、そんな時私はいつも祖父のことを思い、「南無阿弥陀仏、おじいちゃん」と心の中で称えます。不思議と亡くなってからのほうが祖父がすぐ近くにいてくれるような、そんな気がします。
最後になりましたが、本日の盂蘭盆会のお勤めに当たり、亡くなられた方々に心より哀悼の意と感謝の念を表しまして簡単ではございますが悼辞とさせていただきます。